西東京教区壮年委員会講演会
「『話を聞かない男と、地図が読めない女』のグリーフケア」 大柴譲治先生
はじめに
私は、1957年に大柴俊和・節子を両親として、その長男として名古屋で生まれました。
中野区白鷺(杉並区下井草)にある日本福音ルーテルむさしの教会の牧師として19年務めておりまし
たが、この4月から大阪教会へ赴任することになっています。
父はルーテル教会(ルター派)の牧師でしたが、牧師の子供は英語では「PK」、すなわち「Pastor's
kids」又は「Problem Keeper(問題児)」と呼ばれ、問題を抱えることが多いのです。教師、弁護士など「
先生」と呼ばれる人の子供たちは、牧師の子供も、ガラス張りの生活で外から過大な期待を持たれま
す。それゆえ反抗的になることが少なくない。私は「牧師にだけは絶対にならない」と誓って、大学で最
初は数学や物理が好きで電子工学を専攻しましたが、哲学、社会福祉の学びを経て、ルーテル神学
校を卒業、牧師になりちょうど30年になります。気がつくと幼少時にならないと誓った牧師になってい
たのです。
大阪に赴任するにあたり、現在東京での仕事の整理していますが、仕事を終えるときには(始める時
よりももっと)大きなエネルギーが必要で、教会員など多くの人々の祈りに支えられております。私の家
には3人の子供がいますが、この1年の内に結婚や就職でそれぞれ独立し、一家別々に住むことにな
ります(一家離散ですね)。そんな時に喪失感等のグリーフが生まれます。一般に男性にとっての定年
や女性の子育てが終わった時など、人生の節目や私たちの予想を超えた出来事により、虚しさ、虚脱
感などが積み重なり、グリーフ(悲嘆)が生まれ、積み重なることが多いのです。
標題として掲げた『話を聞かない男、地図が読めない女』は、オーストラリアの文化人類学者のアラン
&バーバラ・ピース夫妻の著作で10数年前に邦訳されてよく読まれた本です。男女は、脳科学的にも
はっきりとした違いがあり、生活スタイルが決定的に違うこと。歯磨きの姿勢をとっても、男は鏡の前に
仁王立ちして磨きますが(モノトラック)、女は歩きながら、料理をしつつ、テレビや新聞に目をやり、子
供たち指示しながら磨くことができます。役割上しなければならないことが多く、マルチトラックなのです
。数万年前の人類は、男は家族のために危険を冒して狩りに集中しており、女は洞窟で食物を作った
り、暗い中でも子供たちを守り養う生活をしています。このため、男は空間把握能力が高く、女は情報
処理能力に優れるようになったと説くのです。男は一点集中ですが女は一度に沢山のことが出来る。
男は知識や言語、理性を司る左脳だけを用いることが多いのですが、女は左脳と共に感性や直観を
司る右脳の両方を使えること、女の左右の脳を接続する脳梁が男に比べてはるかに太いので情報量
に大きな差があるなどを指摘した面白い本です。このような差異から、悲しみを表現する方法にも男女
に差が出てくるし、個人によっても違いが出てきます。
グリーフを持った人々に接するときに求められているのは、嘆き悲しんでいる人を型にはめないで接
すること。そして、悲しみを抑えて生きている人は、自由に話す環境を与えられたときに、自分で表現
することにより、喜びや安らぎを感じて気持ちがすっきりして楽になるようです。じっと話を聞くこと、そ
の内容を評価しないことが肝要です。相手の悲しみに寄り添う共感的受容が必要になります。
共感的受容の大切さ
(神学生時代に)「いのちの電話」の斉藤友紀雄先生から、「聴」は「十四の心をもって耳を傾ける」とい
う意味があると伺いました。電話の向こうにいる悩みの人の話に全身全霊を傾けて真摯に向き合うこ
とがカウンセラーの基本姿勢であることを学びました。
「聽」という古い漢字があります。この字は、「耳と目と心を一つにして、それを十全(十分)に求めて
王の声(命)に従う」ことを意味しています。「四」は「目」が横たわった字だと言うのです。「聖」について
も「王の口から出る言葉を耳で受け止める」に由来し、「德」も「目と心を一つにして十分に用いて王の
命を行う」という意味があるそうです。向こうから告げられる王の声に耳を澄ませるのです。私たちキリ
スト者にとっては「王なる神の御声に聽く」ことが求められています。悩んでいる人の声の向こう側に、
奥底に神の声が響いていると考えるべきで、これがグリーフケアの基本であると思います。マザー・テ
レサは、街角で死に瀕している人を連れ帰る時に、一人一人の中にキリストを見ており、キリストの声
をその人を通して聴くことが大切であると言っています。
マタイによる福音書25章40節には、「はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい一人
にしたのは、わたしにしたのである」とあります。牧会者、説教者にとって最も大切なことは、「傾聴」で
あり「聽くこと」です。主がそうであったように、先ず悲しみ痛みの底に降りて行って弱さの中に共にいる
ことが大切です。十字架の死に至るまで従順であったキリストがお手本を示し下さったいるので、私た
ちもキリストに倣いその人の悲しみの淵に降りて行くことが大切です。
三年半ほど前から私は錦糸町にある、学生YMCAの医師たちが開設した百年近くの歴史を持つ、
賛育会病院の緩和ケア病棟でチャプレン(病院付き牧師)をもしています。ここでは余命半年と診断を
受けたがん患者が入院しています。最後を迎える患者さんたちに対して、月に1~2度しか行けない私
には何もできないのではとも考えますが、ただその人の気持ちを一生懸命に聽くことはできると思って
います。多くの方は、自分の故郷や両親など懐かしい話や自分がこれまで携わってきた仕事の話をし
てくださいます。彼らにとっては、私たちがただ傍にいて呼吸を合わせて共に話を聞いてくれることでよ
いのです。求められれば聖書の話もしますが、相手が一番話したいことに耳を傾けるのです。人によっ
て悲しみの表現方法が違うので、聴く側も相手に向き合う時には型にはめずに接することが大切と思
っています。
グリーフケアの研究
私は現在、上智大学グリーフケ研究所の客員所員の任を担っています。これは、2005年の福知山
線事故の後に、JR西日本が「安全工学研究所」を京都大学に、「グリーフケア研究所」を聖トマス大学
に開設したところに端を発します。2010年に聖トマス大学が上智大学と合同したため、東京の上智大
学に拠点が移りました。福知山線事故や後に起こった東日本大震災等不条理な事故や出来事で肉親
や友人を失った人々の(悲しみに寄り添う)グリーフケアを目指したものです。名誉所長に日野原重明
先生、特任所長に高木慶子先生(カトリックシスター)、所長に島薗進先生(宗教哲学者)という三人所
長体制で、人材養成を行っています。臨床の指導者は、キリスト教からはルーテル教会の私と聖公会
からの二人、仏教界からは浄土真宗と真言宗で得度した僧侶二人の四名体制です。 2014年4月か
ら24名の学生を迎えて2年の課程でグリーフケアの専門職の養成を始めました。人材養成の基本は、
アメリカの病院チャプレンの臨床牧会教育(Clinical Pastoral Education、略してCPE)に準拠して行わ
れます。自らがケアされることを通して、ケアすることを学ぶのです。「私の死生観」「生育歴」「逐語会
話記録」等をテーマに、自分自身を見つめ、自らのグリーフを深めそれを意識してゆくようなかたちで
グループワークを行います。傾聴訓練ですね。自分の親や家族との関係を掘り下げてゆくことになりま
す。自分の内面を深く見つめつつ、「気持ち(感情)の動き」に焦点をあてながら、仲間からのフィードバ
ックをもらいつつ、グループワークを通して学んでゆくのです。
YMCAやYWCAのシンボルマークであるBody(身体)・Mind(理性)・Spirit(魂/霊性)という三角形は
、人間にとってそれらが欠かせない三要素であることを示しています。この三つは総合体として分離す
ることはできない関係にあり、例えば精神が肉体に勝ると言うようなことはなく、どの要素も大切なので
す。身体的ケアは医師、精神的ケアは心理カウンセラーや精神科医、霊的ケアは牧師や僧侶などの
宗教家やチャプレン等が行いますが、その中でスピリチュアルペイン・魂の次元があることに焦点を当
ててゆくのです。グリーフケアでは相手が中心で、相手が何を表現するかをじっと聴くこと、相手を評価
しないこと、こちらの思いや価値判断を押し付けないことが大切なのです。じっと話を聞いてくれる隣人
を持つとき、不思議なことに人は、自分と離れたところから自分自身を見つめることができるようになり
ます。話を聴きながら、その人がはじめから持っているそのような力を引き出す援助をするのです。
オランウータン、チンパンジー、イルカとシャチ、そしてアジア象とヒトの六種の動物は、鏡に映った自
分を自分として見分ける力があると言われます。それらの動物は鏡に映る自分の姿が他の個体では
なく、自分の姿であると認識することができるそうです。そのことに気づくと、普段は自分の見えない頭
の上を見てみたり、イルカなどは鏡の前でクルクル回り始めて背中を見ようとさえするというのです。自
分の姿を外から認識できる能力、これは「メタ認知能力(「メタ」とは「超越」の意)」と呼ばれますが、こ
れらの動物は自分を越えたところから自分を見つめることができるというのです。
アメリカの心理学者アルバート・メラビアンの法則によれば、初対面の人のコミュニケーションにおける
「言葉」が果たす役割は7%ということです。姿勢やジェスチャーなど「視覚」的な情報が58%、声の大
小や抑揚など「聴覚」的情報が35%の割合で役割を果たしており、非言語的な要素が93%であるの
に対して、言語的な要素はコミュニケーションにおいて7%の役割しかないのです。牧師は「み言葉の
職人」として言語的な部分にのみこだわろうとしますが、悲しんでいる人に対しては、言葉よりも、目を
合わせたり呼吸を合わせたりして一緒に泣き、笑い、怒ることなど非言語的な受容と傾聴とが求めら
れているように思います。もし私たちの中に沈黙に耐えられない(マルタ的な)傾向があるとすれば気を
付けなければなりません。
「か・え・な・い・心」
グリーフケアの心構えについて、日野原重明先生が「かえない心」という言葉を語っておられたという
ことを教わり、私は目から鱗の心境でした。。
「かえない」の「か」は、飾らず、正直であること。ありのままの姿で、相手に対して率直に、正面から
向かい合うことです。「え」は、えらぶらない。上から目線でなくて、相手と対等な高さで、同じ目線で向
かい合う。「な」、これに私は一番ハッとしたのですが、「なぐさめない」ということです。悲しい相手のこと
を思って、私たちはついつい慰めの言葉を一生懸命探そうとし、慰めの言葉を発してしまいます。そこ
にある沈黙にいたたまれない自分の姿があり、慰めのなさに耐えきれずに、そこから逃げ出そうとする
自分を見るのです。慰めの言葉を必要としているのは相手ではなく自分なのかもしれません。最後の「
かえない心」の「い」は、「いっしょにいる」です。一緒に呼吸を合わせつつ、共に傍らにいることです。か
ざらず、えらぶらず、なぐさめず、いっしょにいる。いい言葉ですね。その通りだと思います。
創世記2章7節に「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこう
して生きる者になった」とあります。神さまの息を受けて私たちの呼吸が始まるのです。そして、最後の
息を神さまに引き取っていただくのがわたしたちの人生です。どのような時にも「神共にいます」という
思いをもって一緒に呼吸を合わせることです。心に乱れがある時には、姿勢を正して深呼吸をして神さ
まの息をいただく思いを持つことです。「か・え・な・い・心」とは、主イエス・キリストご自身が私たちに示
された生き方であり、パウロがローマ人への手紙12章15節の「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣き
なさい」と勧めている生き方でもあります。
日本に華道、書道、武道、茶道という「道」があるように、私たちの「キリスト道」の基本は「主の祈り」
です。この祈りは、世界中で毎日いつも誰かが祈っており、世界を守っている祈りです。そこでは「御名
があがめられるように」と自分のためではなく、先ず神さまがあがめられるよう祈っています。私たちは
、この祈りをいただいたことに感謝したいものです。
私たちプロテスタントにとって、来年2017年は宗教改革500年の年です。マルチン・ルターが、聖書
をギリシャ語からドイツ語に翻訳したことによって、誰でも母国語で聖書を読むことができるようになっ
たのです。ドイツのコラールによる讃美歌も沢山作られ、説教もドイツ語で行われました。意味の解ら
ないラテン語の聖書朗読や讃美や祈りをただ聞いていた礼拝から、母国語での聖書朗読と説教と共
に讃美を歌う豊かな礼拝を獲得したのです。聖書に聴き、主の祈り、使徒信条を共に唱え、讃美歌を
声を合わせて歌う礼拝は私たちの喜びでもあります。
宮本武蔵と柳生石舟斎
最後に、2003年の大河ドラマであった『宮本武蔵』のエピソードについて話します。武蔵の少年時代
は乱暴者、腕自慢であったので、家を飛び出し武者修行に出ます。柳生の里で柳生石舟斎と立ち合い
ましたが、何度挑んでも武蔵は石舟斎に完璧に打ちのめされました。立ち合いの後に武蔵は石舟斎
から「お前には鳥のさえずりが聞こえたか。風のそよぎが感じられたか。水のせせらぎの音が聞こえた
か。」と問われます。それを聞いて武蔵はハッとするのです。自分には「こいつをうち負かす」という思い
しかなかった。自分が自分の思いだけで一杯になってしまい、自分の周囲の世界を全く感じ取れてい
なかったことに気が付きます。石舟斎のこの言葉によって武蔵の心の頑なさが打ち砕かれ、彼の心は
外の世界に向かって開かれたのです。モノローグ(独白)からダイアローグ(対話)への転換ですね。自
分の中に閉ざされていた自己完結的で唯我独尊的な「我」から、世界の中にあって五感において外界
と繋がっている開かれた対話的な「我」へと転換したのです。その後、武蔵は修行を重ねてやがて「剣
聖」と呼ばれるまでになってゆきました。
自分が世界の中に置かれていて、世界と繋がっていることに気が付く者は幸いであると言わなけれ
ばなりません。自分一人だけで生きているのではない。そこには繋がりの中で大きな自由を感じること
ができる豊かな生の次元が開けてくるように思います。神われらと共にいますのです。
(文責:玉澤武之)
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